先週は沖縄、今週は青森に来ているが、やはりそこで話される言葉が面白くてたまらない。
ちなみに私が生まれ育った第一言語は津軽弁であり、その中でも理解されにくい訛りに訛った最高ランクの津軽弁を話す。おそらく生まれも育ちも東京の方は私が本気を出して津軽弁で話した時、何を言っているか分からないだろうと思う。
でも、考えて見れば、英語なんてドイツ語の方言だという人もいれば、
L’anglais n’est que du français mal prononcé.
英語はフランス語を下手に発音したものに過ぎない。なんて言っている人もいるくらいである。(余談だが 仏語のne que は限定用法で ーーにすぎない。du françaisと部分冠詞を使っているところも面白い。文法的に示唆が多い例文)
妻は昨日、私がタクシー運転手とずっと話していた津軽弁会話を全く理解できず、私がどんだけネイティブスピーカーなんだ?!と驚く様子。まるで別人だと言う。それもそのはずだ。
ちなみに私は、当時、東大の言語学科で津軽弁の現在進行形を研究していた大学院生のインフォーマントをつとめたことがあるくらい、津軽弁ネイティブである。津軽弁検定があれば1級を取りうるくらいの津軽弁使いだと言うのは前述の通りだが、自分の中に自由に使える言語が2つあると認識しはじめたころから、言語の科学に興味を持ち始めたという経緯がある。私を言語の科学の道へ連れて行ってくれた最初のきっかけは紛れもなく、津軽弁と標準語の日々行われる脳内会話である。
普通なら、自分が意識せず操れる言語であればあるほど当たり前過ぎてあえて科学しようとなど思わない。そうなると、方言は方言話者によって分析もされず、ただただ、標準語に憧れ、訛る自分はかっこ悪いとセルフイメージを下げ、若者は訛りを表に出さないようにする。私はそれが嫌だった。
仮に青森が日本の首都で、津軽弁が経済的にも主力言語であるならば、津軽弁はいわゆる東京の言語ステータスを有しているだろう。
私が極度に入門時での中国語での(時に頭ごなしの)四声の矯正を嫌うのは、無意識に、生まれたてのありのままの自分(=津軽弁話者としてのアイデンティティー)が理由もなく加工されて作り物の自分になっていく、その様が、標準語化矯正プロセスに重なり、心理的な猛烈な反抗が生まれているのだと思う。そもそも、言葉自体に、発音されるアクセントも含めて、津軽が下等で東京が上等という意識があること自体に違和感を感じ、言語の差別への必死な抵抗があってのことだと自認している。中国語の発音練習も、なぜ、こうしなければいけないのかを教えてくれる人は殆どいない。語源意識をベースに漢音と呉音と唐音でこうだから的な現代日本語の音声学と中国語の音声学を比較音声学的に教えてくれたらいいのに。。。というのは高望みだと言うけれど、人は腑に落ちないことは無意識に抵抗し、もちろん、すべてのなぜには答えれないけれども、なぜがわからなければ一緒に考えよう!という姿勢を未だに教員に求め、自分もそうありたいと思い続けている。
なぜ長いものに巻かれなければならないのか。言語でも。
その意識が消えることはなく、ずっと心理抵抗してきたという生き様の表れなんだろうと思う。とんでもないアクの強いひねくれ者であることは自認している。
とはいえ、人の心はあまのじゃくとはよく言ったもので、私もその例外に漏れず、
なぜ、ここまでにこの差があるのか。をほっとけなかったからゆえ、自分とは違う言い方をする方に極端なまでに興味を持ち、その違う人になっちゃいたいと思って来たのは確かだ。
反抗するならハードボイルドで徹底的に憧れの対象を受け入れるなよ!という声が聞こえてきそうだが、私はそうではなかった。
なぜ、あなたは私と違って標準語を話すのか?
なぜ、あなたは私と違って英語を話すのか?
なぜ、あなたは私と違ってフランス語を話すのか?
私の中での問いは、ただただ、自分にできないことができる人がいる不思議の謎解きをしたい上に、どうしたら、違うあなたに私がなれるのか。を知りたくてしょうがなかった。
その衝動の連続に過ぎない。
ただ、今は、違うあなたは、若い頃は憧れのあなただったかもしれないが、今では、憧れのあなたという言い方は正しくなく、純粋に違う自分という言い方でしかない。そこに憧れという香りをまとわせたほど高貴なものではない。むしろ、そうしない方がいいとも思うくらいである。
あまりに違うあなたを神聖化してしまうと、語学が答え探しの学問になってしまう。
正しい・正しくない
正規表現・非正規表現
◯か☓の世界
私がそこに入りたくないと強烈に思ったから
言葉の料理の可能性を常に探り続けているシェフである。
素材が決まった使い方しかできないだなんて寂しすぎるのだ。
無論、
憧れが消費されるプロセスの犠牲で津軽弁が消えて行くのは悲しい。
そう思いながら、青森の弘前大学が津軽弁のAIによる音声認識ソフトの開発に成功するニュースを聞き、言語学が無形文化の継承に大いに役に立っていることを知り嬉しく思っている。
津軽弁の接続助詞の代表格である【だはんで】
だはんでを音声認識しようとすると、勝手に、打ハンデとかだ半でとかになるという。
そりゃそうだ。【だはんで】なんて、聞いたこともない言葉だろうから。
ちなみに【だはんで】は次のように使われる。
例文を挙げるとすると
(東京方言)聞いたこともない言葉だろうから。
(津軽方言)聞いだごどもね言葉だはんで。
こんな具合の変換である。
ここで、津軽弁には一定のルールがあると推測される。
母音の間の子音が濁るのだ。
標準語(=これをあえて言語学者は東京方言と呼ぶ)では
聞いたこともないの部分を音韻転写すると
/ kiita koto mo nai /とするが
津軽弁ではきれいに濁って
kiida godo mo ne となる。
ここで、子音の中でも、
濁れる子音(=赤字で表示)
と
濁れない子音(=青文字で表示)
があることに改めて気づく
フランス語の心得がある人なら
ない=nai
の部分の読みがne (ネ=aiの塊はeと読む)ことに驚かれるだろう。
しかも西洋諸語に共通するn音の否定をキープしている。(no / ne / nein / non など)
音韻法則に例外なしと青年文法学派は音のルールを絶対化しようとした。もしそれが正しいのであれば、津軽弁であろうが印欧語であろうが、人間が話す言語である限り、発声器官が人種ごとに差異はまずないだろうという推定から、音こそ普遍原理が抽出できる純度の高い場所だと思うのは当然だろう。
私達は純度が失われた文字で語学を勝負しようとする。
沖縄でよく見る、【美ら】は、チュラと読む。
でも、どう考えても、チュラ??よは読めない。
地名には美らと書き、ビラと読む場所もあるらしいが、沖縄の方言研究家の議論では、
もし書くなら、【清ら】が正しいと言う。
この/K/が/CH/になって、Kiyora →churaになるというのだから、印欧語的に考えれば、
ドイツ語のKirche (キルヒェ)が英語の Churchになるのと何ら変わらない。
ここで必死に琉球語を守ろうとする立場の人は、【清ら】ではなく【美ら】を当て字にすると、語源的な解釈を継承せず、言語の伝統を非連続にすると断固反対しているのだ。
いずれにせよ、方言、特に文字に依らず音がそのまま空気に泳いでいる現象こそ、言語活動において純度の高い現象が見られる。
見える世界を変えたければ見えない世界を変えなさい。
という名言があるように
結果を変えたければこそ、見えない音の世界へのアプローチが最重要となる。
ぶっちゃけ、わざわざ外国に行かなくても、十二分に音の現象は日本を旅する中でつかまえられる。方言王国 にっぽん バンザイである。
外国で捕まえられるのは所詮と言ってはなんだが、地元の風習であり、その代えがたい文化体験を得るために海外に飛び出そう!とは声高に叫びたい。ただ、言語を音という純度の高い状態で捕獲し科学するというのであれば、どんどん日本の国内を渡り歩くだけで、とんでもない素材が得られるのだ。
そんな旅の楽しみ方を提案をしてみたい旅行記である。