規範文法への呪縛 

知らぬ間に私達は文法規則を介して、【正しい】と【正しくない】を手に入れることを勉強されられてきた。

 

スカートの丈は何センチまで。

髪は茶髪にしてはいけない。

 

文法が【校則】、いや【拘束】にすら思われ、よってたかって批判の矢面に立たせ、けなすことは簡単である。文法批判論者はいつもその論理だ。

 

でも

 

行き過ぎはいけないにせよ、世の中には秩序と法則性はあって然るべきだと考える。

 

闇雲にこれはルールなどない。自然発生的である。と言われれば、一瞬、そうですか。と引き下がるものの、常に心はなんで、なんでをこだまする。

 

Black English Vernacular (黒人英語)を見てみたい。

 

ここにはなんとも言えぬ英語本来の姿がある。

 

The coffee bees cold.

 

beがそのまま使われているのに、三単現がキープされている。

 

かと思えば

 

He be sick.というのもある。

 

三単現ではbeがbesになったりもする。

 

と思えばHe sick. もある。

 

beがまるごと抜け落ちたパターンだ。

 

でも、beがまるごと落ちる場合は、そこに習慣性が欠如する。

 

He sick today. のように

 

今日が「たまたま」具合がよくないという一時性が強調され、習慣性が消える。

 

正しさの多元性が重層的に折り重なって見えてくる。

 

どこかに私達は標準語とそうじゃないものを一発で決めたがる。そんな性(さが)があるように思われてならない。

 

悲しいかな、規範は多数決によって決められ、大多数を得るものが正しいものになってしまう。

 

黒人英語ではthatはdatだ。ThはDになる。

 

これはドイツ語のdasとなんら変わらない。

 

ThがDに交替するのは、日本語の「タ」に濁点つけて「ダ」ということと変わらない。

 

音が人様の前で裁かれる前は自由奔放だった。Thatはthで書き、datと書いてはならない!と従わなければ頭の悪い子だと差別されるようになった。

 

きょうわてんきがよかった。

 

この【わ】は【は】であるが、そうだからという多数決に従わなければいけないように、ちゃんとかけない子は馬鹿な子になってしまい、文法が教養人の差別の武器にされてきた。

 

でも、

 

rが省略される黒人英語の発音

 

moreはmowで発音されるわけだから、これって、イギリス英語だろって思うわけで。

 

rを発音しないのは人種によるものぐさなんかじゃない!ってことが分かる。

 

こうなると、所詮、偉いルールとはそこに従う人の数の総数で決まるということになる。そこに偏見なんかも味付けされるので厄介だ。

 

ぶっちゃけ、マイノリティーが多数を獲得すれば、マイノリティーはマイノリティーでなくなる。

 

でも言語を勉強するというのは果たして、マイノリティーをマジョリティーに格上げすることなんだろうか?

 

それは言語学習の喜びではなく、選挙の票集めのような政治力ではなかろうか。

 

言葉なんて、言葉本人から言わせれば、政治力などお構いなしに、置かれた場所で咲く花のように、ありのままに咲いているだけ。

 

ほんと

 

ただそれだけ。

 

【雑草という草はない】という言葉があるように

 

雑草としたいのは人間だけ。

 

人間に邪魔な草が雑草であって、害虫もそう。

 

すべては見方に依存する。

 

文法は拘束なのかもしれない。

 

でも拘束があるからこそ自由の枠が分かるんだろう。

 

何が自由で拘束かも自分が決めるものだから。

 

多数決が正しいと思いたければ思えばいい。その方が楽だから。

 

人がいいと思うものにただ従うなら、自分で考えなくてもいいから。

 

それが好きなら好きでいい。

 

でも一言だけ

 

多言語を通じた世界平和は多数決に無条件に従わない自分を形成した上で成り立つんだと思う。

 

だから、正しさの多元性の追求こそ、他者理解に繋がり、受け入れがたい常識もまた、他者においては常識であり、何を選ぶかは自分の見方で選択できる考える自己が創成される。これこそ多言語学習の真の喜びであるのだろうと思う。

 

こうして自分の中にいる知らない自分と握手できたりするのだから、自らを自らで祝福したくなる。

 

こういう自己成長の修練の場、それが多言語学習だと提唱してみたい。

 

 

 

 

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