昨日、品川を歩いていたら
こんな表現に出くわしました。
品川【を】遊ぶ
品川という土地をあたかもなめ尽くすかのように
片っ端から隈なく遊ぶのでしょうか。
西洋諸語の文法では【対格】に対応する【を】格が堂々と使われています。
対格とは対象の全的把握を意味します。
ラテン語も、前置詞に頼らず、ローマへ行くは
まるでローマを行くのように表現しました。Romam eo (Romaの対格がRomAM)
これまた有名なオーダーメードの靴屋さんなのですが、エネルギーが全部注がれるのは地球なんでしょうね。
ドイツ語もわが道をゆくは、seinen Weg gehenで、seinen Wegは4格(=対格)です。
gehenは自動詞なのに?!と言うのはこちらの勝手で
自動詞は他動詞にもなれる。いや、その逆?
おそらく、本来 動詞とは、自動詞でもあり他動詞でもある両性であって、より自動詞として使われやすい傾向のある動詞と、より他動詞で使われやすい傾向のある動詞
そんな多数決なのではないか。と思うようになりました。
かつて、Run the world ! という表現を見ました。
立派な(S)V+Oのコンビで
日本語訳が、世界をこの手に!でした。
自動詞や他動詞の見立てというのはこうであるべき!というルールは時代によっても変わります。
格表示がない言語では、それが目的語なのかどうか分からないわけですから、なおさら厄介です。
Flying planes can be dangerous.
このような文章でも
(1)flying planes =飛んでいる飛行機 (flyを自動詞とみなし、現在分詞)
(2)flying planes = 飛行機を飛ばすこと(flyを他動詞とみなし、planesは目的語)
形での判定は一番最初に来るとしても、意味の判定も絡まってくるからやっかいです。
I teach him English.
これも世の中的にはhimがOで、EnglishもOで、二重対格と呼ばれますが、
ロシア語で考えると、ホントかな??と思います。
ロシア語は彼を(対格:生格と対格は活動体では同一)英語に(与格)教える。
このような形をとるのです。
Я учу его английскому языку.
まるで、彼という全的対象を、英語世界にぶち込む感じすらします。
私が捉えられるのは英語ではなく、目の前の人間(=彼)という全的対象であって、
その対象を認識し掴み、まるでUFOキャッチャーのように、英語という世界(景品が落ちる穴)に、落としてやる的な発想です。
SVOの語順は
主体が何を全的に把握するか(=フルスキャンをかける)
この力が西洋諸語には支配的である。
でもそれはあくまで支配的な力学であって、自動詞で析出しやすい動詞もありますが、
本来的には両性で、英語なんかはより他動詞性が高い事象が多い
そう感じる次第です。