先日、再帰動詞とは何か。この講義をした。
イタリア語では(フランス語もそうであるが)
私が私を起こす。という変な言い方をして、起きるとする。
黙って、起きるって最初から言えよ!って話であるが、西洋諸語は他動詞化の歴史をたどって来た。自動詞優勢の日本語と他動詞優勢の西洋諸語がある。この二項対立は非常に大事だ。
自動詞はあるがまま、私は私。ありのままで。
他動詞はなんだかんだで、相手にエネルギーなりちょっかいを出す。
人は自動詞を水平
他動詞は垂直
こう表現する人さえいる。
日本語はずばり水平言語だから、出しゃばることを徹底的に嫌う。
飴が一個だけ残っていようものなら、寿司が一貫だけ残っていようものなら、
その一つだけがなぜか。。。ずっと残っている。寿司ネタが干からびてるじゃないか。。と思うくらい、残念ながらずっとその寿司の一貫が食べられないまま残り続ける。
えええええ!!!って思ったことはないですか。
日本人はでしゃばれないのです。(私はそうじゃないわ!とでしゃばってもいいですが、そこはグッとこらえて聞いててください)
それに対して、他動詞型言語は、そうは行きません。
でしゃばります。でしゃばってなんぼです。
言わないで分かるさ愛 愛してるなんて言わなくていいよ。
冗談じゃありません。言わなきゃわからないのです。
起きるわよ!って言っても、誰が起きるんだよ?! ?????
言わなきゃ分からないのです。
えっ?!俺??
他動詞型言語は自動詞型優勢の言語から見れば、いちいち言わなくても済むようなことを言わなければならないので、勘弁してほしいんですよね。
愛してる!!!
わかりきってるだろ、俺がお前を。。。
じゃないってことです。
誰が誰を愛しているのか。
誰が誰を起こすのか。
嫌という程、出発点と着地点、原因と結果を明確にしなければなりません。
お茶が湧いたよ!
日本語は自然にそんな表現があります。
自動詞表現の典型です。
他動詞優勢言語話者から考えたら
お茶が湧くなんて、心霊現象?!でしかありません。
こんな表現が無限に日本語はあり、
子供ができたの。(勝手にできるんか?!)
夕ご飯できたよ。(私がんばったのに、作者不詳?!)
私が、私が、私が…..
これを消すんですよね。
アメリカは寄付文化だといいます。しかも、俺が寄付したぜ!を言わない人が多く、日本人は寄付はアメリカに比べれば遥かにしないと言われています。
普段から、私が私が私が!!したい他動詞文化圏にある人は、そこに疲れて、ひっそりしたい部分を持つ一方て、いつもいつも、〇〇していいですか? すいません。って自分を消しながら、許可ばっかりとっている日常の日本人からすれば、普段から隠れているのに、更に自分を消して寄付までとは行きづらいんでしょうね。
いずれにせよ、自分を目立たせるか、自分を見せないか。
見せない自分がかっこいい。ってのは日本語の美学です。
なので、誰が起きるのか。
勝手に起きるはずはない。勝手に起きたらポルターガイスト。
俺が俺の意志で俺を起こす。
ああ、めんどくせぇー
他動詞が自動詞になるプロセスなのです。
話が長くなりましたが、西洋諸語は他動詞的で、日本語は自動詞的
この対立は大事なので頭に入れておいてください。
ここまで言っておいてすごーーーく言いにくいのですが、
実は、西洋諸語は、自動詞的でした。本来は。
簡単に言えば、日本語ぽかったのです。
なのに、主語という概念を投入してしまったことで、
主従の関係が生まれ、垂直関係、上司と部下のSM関係ができてしまうのです。
この辺は話が長くなるので別の機会に譲りますが、
印欧語は本来は日本語のように自動詞優勢で、水平言語であったが、
その水平の均衡は、主語の確立により崩され、他動詞化への一途を辿るのです。
なので、他動詞化は、強き者と弱き者を生み
言語の中に垂直な関係性をもたせるです。どれが上でどれが下。
あなたが偉くて私はブサイク
この辺が浮き彫りにされます。
Make America great again !
アメリカは偉くないとアメリカじゃないんでしょうね。
この辺に垂直な思いがよく出ていると思います。
ああ、たのしい!! って、
英語だと、I enjoy myself.
自分が自分を楽しませるって。。。勘弁して欲しいのですが、
なんで、こんなめんどくさい言い方なんだ。。と思いますが、
これぞ他動詞言語の真髄骨頂で
誰が誰を楽しませるかを言わなきゃいけない言語だからなのです。
私がもうひとりの自分を楽しませる。
幽体離脱でもしなければ、
もうひとりの自分が自分を見ない限りは
どうあがいても出てこない発想法です。
その点、客観的に、冷静に自分を見つめられるとも言えます。