フランス語はavoir mal à +定冠詞+身体部位で、痛む場所を訴える表現がある一方で、イタリア語は逆にavere mal di +身体部位でシンプルに示す。
イタリア語とフランス語を比べてみましょう。
歯が痛い
Ho mal di denti.
=J’ai mal aux dents.
(歯が複数形で示されている点に注意)
喉が痛い
Ho mal di gola.
=J’ai mal à la gorge.
頭が痛い
Ho mal di testa.
=J’ai mal à la tête.
胃が痛い
Ho mal di stomaco.
=J’ai mal à l’estomac.
お腹が痛い
Ho mal di pancia.
=J’ai mal au ventre.
フランス語とイタリア語の痛みの表現の前置詞だけに注目すると仏語はàでイタリア語はdiで、微妙に違う。àはどちらかと言えば矢印が外に向かうイメージがある一方で、diは外向矢印というよりは、内包を感じるからだ。
フランス語学ではÀとDE(イタリア語のdiに相当)は、白と黒、光と闇、女と男のように、二分法の道具として便宜上用いられる。
このàとdeの対立は極めて重要で
副詞的代名詞の判別の際、その区別が必要とされる。
私は東京に行きます。
Je vais à Tokyo.
【東京に】の部分を、そこへという言い方(there)にしたい場合
Je y vais. (y=à Tokyoの代用)となる。
À+名詞が、yという音で置き換えられるのは非常に示唆的だ。
音で言えば、【イ】
痛いの【イタイ】の【イ】 (痛い場所への差し込み)
イ音に方向性やベクトルを感じるのは私だけだろうか。
イ音になんとなく→(矢印感)を感じる。
ちなみにロシア語で、行くという単語は、イッチィー(Идти)である。
Àの外向きベクトル感とは真逆で、DE(ドゥ)は巻かれたネジが戻るかのような内向き感がある。
私は東京から来ました。
Je viens de Tokyo.
このde Tokyo.をそこからの意味で置き換える場合
de Tokyo = enになるのです。
J’en viens . となるのですから、à Tokyo なら y ・ de Tokyoなら、en となる対立が見られるのです。
ここに、イタリア語とフランス語の比較の面白さがあるのですが、
フランス語はavoir mal à に対して、イタリア語はavere mal di
語源的には仏語のàと伊語のdiは対立と捉えられます。
ただ、対立は時にグジャグジャになる時もあったりします。
常に2分法には罠があって、どっちとも分からないfuzinesss もあります。
明確に朝、明確に夜。
じゃあ、17時45分は?? みたいな感じです。
うーん 夕方。
夕方は昼なのか夜なのか。どちらでもいいんじゃない?みたいなfuzzyなところがあります。
続けるという表現でお馴染みの
continuer à
これはcontinuer de もあります。
続けるんだから、外向矢印がいいだろ!って思いますし、それで覚えておいていいのですが、continuer de も立派にあります。
àもdeも混乱する場合があるのです。
言語学者はàとdeの対立を外側と内側で整理しようと試みました。でも、その試みの中で、どうしてもどっちつかずの現象に遭遇する場合があります。二分法でスッキリ爽快は最高ですが、割り切った後にまた余りが出てしまう、そしてその余りを割ろうとすれば、更に余りが出てしまう。こういう繰り返しが学問であったりもします。学問というよりも日常生活そのものが、すべて割り切れない現象との闘いなのかもしれません。
かの印欧語学者の泉井久之助先生は、言語学を余剰の学問と称したとか。非常に示唆的な表現です。文法事項は言語現象を整理はしてくれるけれど、解決はしてくれないこともあるわけです。逆に明快でありすぎればありすぎるほど、そうなのか?という疑義も生まれるので、疑義が生まれてまた学問が進んでいくんでしょうね。